高校生の頃、俺は一度だけ、中学の音楽の先生と“ふたりきりで会った”ことがある。
デートと呼ぶほどの甘さはなかったけれど、秘密にしたという意味では、確かにあれは青春の特別なワンシーンだった。
中学のときの音楽の先生は30歳前後で、肩までの黒髪をいつも後ろで束ねていた。授業中は厳しいけど、合唱コンクール前にピアノを弾きながら「ここはもっと優しく歌うといいよ」と微笑んだ顔が今でも忘れられない。
俺は密かに憧れていた。
高校1年の冬、地元のスーパーで偶然再会した。
先生は買い物帰りで、俺を見るなり少し驚いたような、それでいて懐かしそうな笑みを浮かべた。
「久しぶり。高校どう?大変?」
「まあ、なんとか。音楽は相変わらず好きです」
俺の言葉に、先生は少し嬉しそうに頷いた。
それだけの会話で終わるはずだったのに、帰り際に先生がふと言った。
「よかったら少しお茶でもどう?話したい気分でね」
その瞬間、心臓が跳ねた。
俺は誰にも言えないまま、先生と駅近くの喫茶店に入った。
静かな店内、流れるクラシック、窓の外の冬の風。
ココアの湯気の向こうで、先生は仕事の話や、中学での思い出、そして俺の進路の相談まで真剣に聞いてくれた。
「あなたは声がきれいだったよ。合唱のとき、ちゃんと伝わってきた」
不意にそんな言葉をもらって、胸が熱くなった。
叱られた日より、怒られた日より、その一言が心に刺さった。
でも俺は同時に、少しだけ大人の世界を見た気がした。
先生の指先には疲れが滲んでいたし、笑顔の裏に何かを抱えているようにも見えた。
当時は理解できなかったけど、今ならわかる。
教師だって、ひとりの大人で、悩むことも迷うこともある。
帰り道、駅まで並んで歩いた。
手も繋がないし、距離は一定のまま。
ただ、冬の空気の冷たさと、横にいる大人の温度だけが妙にリアルだった。
別れ際に先生は言った。
「今日のことは、ふたりだけの思い出にしておこうか」
俺は頷いた。
それが秘密というより、宝物のように思えたからだ。
出会い系で大人の女性と会うようになった今、時々あの日を思い出す。
恋でもなく、友情だけとも言い切れない曖昧な関係。
名前のつかない感情が、人生を豊かにすることもあると知った。
あの喫茶店のテーブルに残ったココアの輪。
あの視線、あの声、あの冬の匂い。
全部が、俺の青春の片隅で今も生きている。


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