社会人になって数年経った頃、思いもよらないメッセージが届いた。
相手は、中学の頃にお世話になった音楽の先生だった。
クラスで一番優しくて、でも芯があって、ピアノを弾く姿が誰よりも美しかった先生。
「久しぶりに会わない?ランチでもどう?」
その一文だけで、胸の奥がざわっと熱くなった。
当日、先生の家の最寄り駅に着いたとき、妙な緊張があった。
先生とは社会人になってから何度か連絡を取る程度だったが、
“家に招かれる” という距離の近さはまったく別物だ。
住宅街の静かな一角にある小さなマンション。
ピンポンを押すと、懐かしい笑顔がドアの向こうにあった。
「あ、来てくれたんだ。元気そうで安心した」
先生はエプロン姿で、昔より落ち着いた雰囲気をまとっていた。
でも、笑うときに目尻が下がる癖はそのままだった。
部屋に入ると、ほんのりとバターとハーブの香りがした。
テーブルには先生が作ったランチが綺麗に並んでいた。
「料理、好きになったんだよね」と照れながら言うその姿に、
中学生の頃の “先生” という距離感が一気に崩れていくのを感じた。
食事をしながら、お互いの仕事の話、昔の話、
そして俺の知らなかった先生の本音まで聞くことができた。
「あなた、中学の頃からすごく頑張り屋だったよ。私、応援してたんだ」
その言葉が刺さった。
あの頃の俺は、先生の一言や表情に救われていた。
今、その本人にまた会えているという事実が、妙に胸に残った。
食後、先生が紅茶を入れてくれた。
窓から差し込む午後の日差し、静かな部屋、二人の会話――
その空気がどこかやわらかくて、
“もう先生と生徒じゃないんだ”
という不思議な感覚があった。
ふと先生が言った。
「こうしてあなたと話すと、時間って本当に面白いよね。昔は子どもだったのに、今は…ちゃんと大人と話している感じ」
その言葉に少し照れた俺は、紅茶のカップで表情を隠すようにした。
帰り際、玄関で靴を履きながら先生が言った。
「また、ランチでもお茶でも来てね。あなたと話してると落ち着くんだ」
その一言が、妙に心に残った。
恋愛という言葉とは少し違う。
でも “特別な距離感” がそこにはあった。
先生の家で過ごした数時間は、中学の頃の淡い憧れが、
大人としての尊敬や暖かさへ形を変えて静かに胸に根付いた時間だった。
人生で、誰かとの関係がゆっくりと変化する瞬間がある。
この日のランチは、まさにその一つだった。


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