大学を卒業した春、地元に帰省した僕は、ふと中学の音楽の先生のことを思い出した。
ピアノの前でいつも静かに微笑んでいた女性。思春期だった僕にとって、初めて「大人の女性」を意識した相手だった。恋と言えるほど明確な感情ではなかったが、あの柔らかな声や仕草は記憶に残り続けていた。
ある日、偶然SNSで先生を見つけた。勇気を出して軽く近況を送ると、意外なくらい丁寧な返事が返ってきた。
「春休みなら、久しぶりに会ってみる?」
その一文に心が跳ねた。
会うだけ、それだけのはずなのに、胸の奥がざわつく。
高校でも大学でも感じなかった、懐かしい熱が蘇った。
待ち合わせは小さな喫茶店。
先生は昔より髪が短くなり、穏やかな空気を纏っていた。
僕はスーツ姿。もう「生徒」ではなく「大人の男」として向き合う時間。
コーヒーの湯気越しに交わす会話はぎこちなく、それでいて心地よかった。
仕事の話、大学生活、恋愛の失敗談まで。
先生は時折笑い、真剣に耳を傾け、僕を対等な一人の大人として扱ってくれた。
夕方になると、人目を避けるように店を出て、街灯の少ない道を歩いた。
肩が触れそうで触れない距離。
沈黙すら心地いい。
「大人になったね」
先生はそう言ったあと、少しだけ視線を外した。
真正面から目を合わせれば、何かがほどけてしまいそうだった。
僕も踏み込みきれない。
好きかどうかすら曖昧。ただ、離れたくない夜だった。
駅の前で別れ際、先生は小さな声で言った。
「またいつか、話そうね。今度は時間を気にせずに」
その言葉には、可能性と距離、両方があった。
抱きしめる勇気も、手を伸ばす決意もない。
でも、あの瞬間の空気だけは、今も胸の奥で灯り続けている。
出会い系で女性と会うたび、ふと重ねてしまう。
落ち着いた声で、相手を尊重して話せる人。
急がず、ゆっくり心が近づく関係。
情熱的な恋もいいけれど、あの日のような
「静かで温かい繋がり」が、本当は一番欲しいのかもしれない。
恋愛は結果じゃなく、記憶に残る時間。
恩師との密やかな再会は、僕の恋愛基準のひとつになっている。


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