桐生高校に通っていた頃、僕には密かに憧れていた女性がいた。音楽の先生。長い髪をひとつにまとめ、いつも冷静で、静かに微笑む姿が印象的だった。声は小さいのに、不思議と教室全体に届く。僕はその雰囲気に惹かれていた。
きっかけは放課後。文化祭で演奏する曲の相談をしたとき、先生は少し考えてからこう言った。
「学校じゃ弾きにくいでしょ。うち来る?」
冗談かと思った。でも先生は鍵を開ける音のような、淡々とした現実味のある口調だった。僕の心臓は一気に跳ね上がった。生徒が先生の家に行くなんて、普通じゃない。でも、断る勇気もなかった。
先生の家は学校から歩いて10分ほど。古いアパートで、階段を上がると音楽室特有の柔らかい香りがした。部屋にはピアノと譜面台、棚にはクラシックCDが整然と並んでいる。先生の生活がそこにあった。当たり前だけれど、それを目の当たりにするだけで胸がくすぐったくなった。
「緊張してる?」
先生は笑いながらお茶を出してくれた。ジャスミンの香りがふわりと広がり、僕はますます落ち着かなくなった。二人きりの部屋。沈黙も音になって響くようだった。
ピアノの前に座ると、先生は僕の肩越しに覗き込み、指の形を直してくれた。白い指先が僕の手に触れた瞬間、体温が一気に上がった。先生はあくまで指導のつもりだったのだろう。けれど僕の頭の中では違う物語が動き出していた。ありえない妄想、叶わない期待。理性は追いつかない。
「上手。あと少し力を抜いて」
褒められると胸の奥が熱くなる。僕はただの生徒。彼女は教師。分かっていても、距離が近いと感情は勝手に暴走する。
2時間ほど練習し、帰る前に先生は玄関で言った。
「今日のことは、内緒にしておきましょう。変に噂になっても困るからね」
優しい笑顔だったが、その言葉には線引きがあった。僕と先生の間に透明な壁が立った感覚。触れられそうで触れられない距離。だからこそ、余計に忘れられない。
帰り道の風は冷たかった。だけど胸の中はずっと温かかった。
期待と現実。憧れと限界。あの日、僕は年上の女性は「ただ優しいだけじゃない」と知った。距離感と責任、その裏にある大人の判断。
今、出会い系で年上女性と会うとき、たまにあの音楽室のような香りを感じることがある。丁寧で、落ち着きがあって、でも近づきすぎれば危うい。
恋は時に音楽に似ていて、正しい音を鳴らすには距離と緊張が必要だ。
先生とはそれきり特別な関係にはならなかった。でも、あの午後が僕に残した余韻は消えない。
大人の女性は美しい。それは恋というより、人生のレッスンのようだった。


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