中学生の頃、俺には少しだけ誇らしい秘密があった。
「音楽の先生にひいきされていた」ということだ。
もちろん露骨ではない。むしろ他の生徒が気づかないように、自然な形で。
でも俺にはわかった。あの笑顔、声のトーン、席の近さ。全部が他の誰とも少し違った。
音楽の先生は、髪を後ろでまとめた落ち着いた女性だった。
黒板に五線譜を描く姿は絵になるし、ピアノを弾く横顔にはいつも柔らかい緊張感があった。
授業中は厳しめだけど、歌が揃ったときは子どものように嬉しそうに笑う。
俺はその表情を見るのが好きだった。
合唱コンクール前、放課後の練習でのこと。
歌声がそろわずクラス全体が疲れていたとき、先生は俺に向かって言った。
「あなた、少し前に出て歌ってみて。みんなに声の出し方を見せてあげて」
その瞬間、周りが少しざわついた。
俺は特別うまいわけでもない。でも先生は理由をつけて前に立たせた。
恥ずかしさよりも胸が熱くて、少しだけ誇らしかった。
さらに、提出物の評価でも「よくがんばったね」と赤ペンの文字が他より丁寧だった。
音楽室に忘れ物を取りに行ったら偶然一人でいて、楽譜の整理を手伝うと「気が利くね」と笑った。
たった一言なのに、帰り道ずっとニヤけていた。
家に帰ってからも、なぜ先生は俺に優しかったのか考えた。
「期待されていた?」
「扱いやすかった?」
「それとも…少しだけ気に入られていた?」
真相は今もわからない。
でも、人に優しくされることは、こんなにも心を満たすのかと知った。
卒業の日、先生は俺の目をまっすぐ見て言った。
「歌、続けてね。きれいな声だから」
その言葉が胸に住み着いて、音楽が好きになった。
ひいきされていたのかは今でも分からない。
でも、あれは確かに俺にとって特別な存在だった。
大人になった今、出会い系アプリで人と会うようになって思う。
好意は言葉より「態度」で伝わるということ。
特別扱いは、告白よりも強く胸に残ることがある。
誰かに好かれる感覚を、中学のあの日に俺は知ったのかもしれない。
恋ではなかった。
でも、誰かが自分を見てくれた喜び。
それは今も俺の中に残っている。
あの音楽室の匂いと、夕暮れの光。
ピアノの音が止まった後の静けさ。
全部が、青春の小さな宝物だ。


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